プロポーズ①

2015年6月26日、僕たちはいつも以上にド派手な口喧嘩をしていた。原因が全く思い出せないので、大したことがない種類のものであったに違いないが、その日の事を今でも鮮明に覚えている。

アドレナリンフル回転で、あーでもない、こーでもないと、まくし立てていた時、Mikeが携帯に目をやり、何かを読んでいる。喧嘩の最中に、スマホに逃げている事実を目のあたりにし、僕の怒りは沸点に達した。

「同性婚、アメリカで合法化」

Mikeは、魔法の言葉のようにそう言い放った。

アメリカの連邦最高裁判所が、同性婚を認める判断を下し、事実上の同性婚が合法化されたというニュースだった。

この決定がアメリカにとって、そして自分達にとってどんな意味を持つのか、その場ですぐに理解することはできなかった。でも、この突然の報道のおかげで2人の喧嘩が宙ぶらりんになり終結を迎えた奇跡はまさに魔法だった。

これを境に2人の間に「結婚」という可能性があることを少し意識し始めた。

そして、数か月後に僕は母親にカミングアウトをすることになる。

「プロポーズ」をいつするのか?そして、どちらがするのか?これは、大抵どのカップルでも悩ましい問題かもしれないが、僕たち二人の間では、少なくともMikeからするということは結構前から決まっていた、というか「自分からはプロポーズは絶対しない」と常日頃から宣言していた。そう固く決意したのは、6年前に遡ることになる。

母へのカミングアウト③

その前年に、一つ上の兄が結婚した。

母は、地元で強力な仲人チームを結成し、兄の将来のお嫁さん探しをライフワークにしていた時期があり、兄の結婚を人一倍喜んだ。(結局、仲人チームの力は及ばず、就職先の名古屋でいい人に巡り合えたので、息子にとっては迷惑極まりない母のライフワークは無駄に終わった。)

そのライフワークの矛先はいずれ自分に向かうと覚悟していた。

母は家の中の物色を終えると、少し広くなったキッチンで夜ごはんを作り始めた。その間、いつも以上のペースでお酒を飲ますにはいられなかった。

「今じゃない、今じゃない」

夜ごはんを待っている時も、食べているときも、ずっと頭の中をぐるぐる回っていた。

少し酔いも回り始めたころ、会話は兄の結婚の話になった。

兄の結婚式が、名古屋に割には相当地味だったこと。

結婚式で、あんなに幸せそうな兄を見たことはなかったこと。

結局は自分で見つけたお嫁さんが一番だということ。

思えば、今までもずっと色んな話をしてきた二人。

でも、なぜ肝心の自分の事が言えないのだろうか・・。

「***(兄の名前)は結婚して幸せになるタイプやけど、だからと言ってSojiは結婚しなくもてもええのよ。」

母は、急にぽろっと言った。

母の意図が良くわからなかったが、反射的に僕はこう言い返した。

「そっか。でも、俺やって将来は結婚したいと思ってるねんで。」

一瞬、間があって、そういう人がいるのか?と聞かれた。

「おらんことはない。でも、普通の結婚ではないかもしれん。」

「普通の結婚」。。。。。って何なのだろうか。自分でそう言って、不思議に思えた。

「そっか、Sojiは将来結婚したいと思っている。でも、その人との結婚は普通ではない。。。」

母は、独り言のように呟いて、信じられないような言葉を放った。

「Sojiの付き合っている人は。。。北朝鮮の人なの?」

真顔だった。ウケ狙いとは思えないほどの。

肩透かしを食らう僕。「い、いや。北朝鮮ではない。。」

「そっか、じゃあどう言う事?」

母は真顔だった。

「・・・・・・・・・・」

そこから先のあと一歩。あと一歩を結局は自分から進めることはできなかった。

思えば、小さいころからいつも最後は母に助けられていた。

夫婦喧嘩に耐えられなくなり、家を抜け出し近所の本屋さんに逃げ込んだ時。

家族旅行はいつも、わがままにすねて周りに迷惑をかけていた時。

大学時代、些細な事で喧嘩をし、母からの電話を全て無視していた時。

決まって、最後は母からの助けがあった。

沈黙が続いた。そして、僕は母の事を直視できなくなっていた。

話題を変えないと。といつもの防衛本能が働く。「今じゃない、今じゃない」

「同性が好きなの?」

ストレートすぎる質問だった。

返事もできないまま崩れ落ちるように泣いた。それが僕の十分すぎる答えだった。

母へのカミングアウト②

2015年の夏、Mikeがアメリカに帰省するタイミングに、母親が家に泊まにくるということになった。今回は賃貸アパートではなく、購入したばかりのマイホームの様子見ということだ。もうこれ以上「Mikeとのシェア生活」という嘘は限界だった。

Mikeと付き合って既に8年目を迎えていたその当時、本格的に同棲して6年以上が経っていた。Mikeは、大学生時代に既に家族にはカミングアウト済みで、Sojiに会いたがっているというプレッシャーを受け続けていた。でも自分の家族に本当の事を言っていないのに、相手の家族に会うという気にどうしてもなれなかった。

自分にも「その時」が来た、と思った。

でも、実際にじゃあどうすれば?がわからなかったので、色々調べることにした。

砂川秀樹著の「カミングアウト・レターズ」というLGBTのカミングアウトに関する本がある。いろいろな告白が手紙のやり取りという形で紹介されている。その中には、感情移入することができた関西の親子の話もあり、背中を教えてもらえたような気になれた。

既に両親にカミングアウトしている友人にも、参考にと話を聞いてみた。カミングアウトした結果、それまで以上に親子関係を深目ることができた話、そしてその逆のパターンの話も聞いた。カミングアウトすることが、果たして正しい事なのか。それ自体、色々な意見があった。

本や友人たちの当事者の話はリアルだった。にもかかわらず、肝心の自分はふわふわしていて、実際にその行為を行う当事者意識が全然なかった。

Mikeがアメリカに出発する朝、僕は高らかにこう宣言した。

「Mikeが飛行機に乗っている間に、全てが変わっているから。アメリカに着いたら、すぐにメールをチェックしてね。」

明らかにふわふらしていた。

長すぎる間、隠し続けた嘘。どういう風に切り出すのか。母の反応は?自分の言いたいことをうまく伝えられるのか?何度も頭で予行練習してみるが、これといった正解が見つからない。

結局「カミングアウトをする」事以外、何も決まらなかった。

母が最寄の駅に着いたという連絡が来た時、ようやく僕はカミングアウトの重みを全身で感じた。

今日を境に、親子関係が崩れるかもしれないこと。

母が息子に対して抱いていた夢や希望を打ち砕いてしまう可能性があること。

自分のこれまで反射的についてきた嘘の数々。

「親というものは子供を心配するあまり、常に最悪のシナリオを考えておくものなのよ。」

いつもの母のセリフが頭をよぎる。

「別に今日言わなくてもいいんじゃないか。」

逃げだしたくない想いに襲われる中、ドアのチャイムが鳴った。

そこには、いつもの母がいた。

母へのカミングアウト①

 

「親というものは子供を心配するあまり、常に最悪のシナリオを考えておくものなのよ。」

僕が大学を辞めたいといったとき、留学を決めたとき、東京に住むと決めたとき、聞いたこともないベンチャー企業に就職をきめたとき・・・。母は、常にそう口にした。そして母の場合は、その最悪のシナリオを胸にとどめず、迷いなくぶつけてくる性格だった。

なので、自然と事後報告パターンが多くなる。必ず、反対されるとわかってるからだ。

そのたびに、僕のセリフは決まっていた。

「日本の大学卒業したら、何してもいいって言ったよね?」

日本に帰国して、東京、そして湘南と何度も引っ越しをしてきたが、そのたびに母は家に遊びに来た。おそらく生存確認の意味もかねて。

僕たちは、7年前に本格的に同棲を開始し、東京の高円寺にあるアパートに住んでいた。

その時もそのアパートに引っ越したばかりで、母がどうしても家を見てみたいということで、「シェアメイト」のMikeがいない間に、しぶしぶ招待することにした。

夕方に到着するということで、そわそわして待っているがなかなか現れない。結局、到着したのが夜も随分経った頃だった。一通り家中を物色され(ダブルベットを置いている「シェアメイト」の部屋はプライバシーと理由で、見せなかった。)、居心地も悪いので、外でご飯を食べようと玄関に向かった時、ドアが開きMikeが帰ってきてしまった。

明らかに動揺の色を隠せない2人。ぎこちなさすぎる時間が過ぎていく。慌ててMikeを紹介する自分。突然すぎて言葉を失うMike。そして、なぜか片言の「日本語」を話しはじめる母。

それが、母とMikeとの最初の出会いだった。

母は、その時にことをよく覚えていて、酔っぱらうといつも同じ話をくりかえす。「あの時、Mikeとはじめて会って、とても安心したわ。シェアメイトとしての紹介だったけど、Sojiが一緒に住む人が、清潔で感じが良くて、直ぐにMikeの事を好きになったわ。Sojiは、本当にだらしなくて、一緒に住むには大変な奴やから。」

母は、いつもMikeを上げ、僕を下げることを決して忘れない。

それ以来、実家にはMikeと一緒に帰省するようになった。あくまで、仲のいいシェアメイトとしてだったが、一緒の時間を過ごすことができるようになったことは大きすぎる一歩だった。

そして、2015年の夏。僕は、母親に自分のセクシャリティをカミングアウトすることに決めた。

プロローグ

「生涯で1番忘れられない一日」を問われたら、父が亡くなった日と答えようと思っていた。朝、母から電話がかかってきて、祖母を連れて雨の中タクシーで向かって、既に意識のない父と対面した。その日一日の空気感は今でも覚えている。憔悴しきった母の背中や息子を失った祖母が捧げる祈り。葬儀屋の顔。病院の屋上に広がる雨雲。そんなグレイな一日に、僕は数少ない家族を一人失った。2001年6月6月、19歳だった。

それからまもなくして、祖父母が亡くなり、これからは自分の家族は少なくなっていく一方だと覚悟を決めた。

そして、僕は大人になった。

父を亡くして、その当時通っていた地方の国立大学に通う事ができなくなった僕に対して母はこう言った。

「大学さえ卒業してくれたら、あなたの人生何してもいい。だからお願い。卒業だけはして。」

先日この話を母にしたら、自分は憶えていないと言われたが、この言葉がなぜかその後の僕の生き方を支えた。

日本の大学を卒業し、就職活動もせずオーストラリアに留学した。3年間の留学生活で、僕は一つの現実を受け止めた。というか、受け止めるしかないとあきらめることができた。

「自分はゲイで、これからは世間の人が「普通」という人生を歩むことはない。」

そして、ストレートの友達数人に初めてカミングアウトをした。それは仲のいい友人にありのままの自分を受け止めてほしいといった気持ちというかむしろ、自分に対する決意表明だった。

「将来、パートナーと呼べる人と出会えたら、家族に自分の事をカミングアウトして、結婚したい。」

友人達にそんな夢を高らかに宣言して、2007年の春に留学生活を終え、日本に帰国した。

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あれから10年という月日が経ち、僕はハワイのノースショアにある場所に立っている。

隣にはパートナーのMike、両脇には着物姿の母親とセクシードレスのMikeのママ。そして、前方には真っ青な空と海、ウェディングアーチ、そして友人や家族の姿が見える。

ウクレレの曲が、「Somewhere Over the Rainbow」に変わる。

始まりの合図だ。

Somewhere over the rainbow
Way up high
There’s a land that I heard of
Once in a lullaby

虹の向こうのどこか空高くに
子守歌で聞いた国がある

Somewhere over the rainbow
Skies are blue
And the dreams that you dare to dream
Really do come true

虹の向こうの空は青く
信じた夢はすべて現実のものとなる

僕たちはぎこちなく歩きだす。4人で歩いたアーチへの道のりは、10年前に願った「そこ」への道だった。

Some day I’ll wish upon a star

And wake up where the clouds are far behind me

Where troubles melt like lemondrops

Away above the chimney tops

That’s where you’ll find me

(いつか星に願う

目覚めると僕は雲を見下ろし

すべての悩みはレモンの雫となって

屋根の上へ溶け落ちていく

僕はそこへ行くんだ)

そして、2017年8月8日「生涯で1番忘れられない一日」が始まった。